岡山の朝散歩で後楽園へ ― 茶畑・馬場・能舞台が、ひとつの園につながっていた

後楽園の茶畑沿いの園路

岡山での仕事の朝、開園と同時に後楽園を歩いてきました。1時間で5kmほど。ただの散歩のつもりだったのですが、歩き終わる頃には「ここは一体どういう場所だったんだ」という疑問でいっぱいになっていて、そのまま調べながら帰ってきました。その記録です。

岡山の後楽園に行きました

散歩が「出力の時間」から「入力の時間」に変わった

先に、なぜ朝から庭園を歩いているのかという話を少しだけ。

少し前まで、散歩の時間はまるごと仕事に使っていました。歩きながらChatGPTと会話して、思いついたことを話して、まとめてもらう。移動時間がそのまま出力の時間になっていたわけです。効率としては悪くありません。ただ、気づけば一日中ずっと何かを出し続けている状態でもありました。

そこで、仕事は極力作業机の上だけでやると決めました。場所で役割を分けて、意図的に「外の時間」をつくる。

面白かったのは、そう決めたあとに歩く距離が勝手に伸びていったことです。目的が「考えること」から「歩くこと」に変わったからだと思います。そして今、その時間は音楽を聴いたり、目に入ったものをその場で聞いたりする入力の時間になりました。「これ、なんていう遺跡ですか」「いつの時代のものですか」と。

この日の後楽園も、まさにその使い方でした。

歩いて見つけた、ひとつの園の中の「バラバラなもの」

後楽園の茶畑沿いの園路

まず驚いたのが、これです。庭園の中に、茶畑がある。

整えられた石や松が並ぶ「庭」を想像していたので、畝の立った茶の木がずらっと続いている風景は完全に予想外でした。しかも奥には田んぼ(井田)まである。観賞用の庭園に、なぜ生産の場が同居しているのか。

茶畑・馬場・能舞台・池と建物

歩き進めると、要素はどんどん増えていきます。

  • 茶畑 ― お茶の文化と、人の営みがそのまま園内にある
  • 馬場 ― かつて藩主や武士が馬術を稽古した、細長い直線の場
  • 能舞台 ― 伝統芸能が演じられた舞台が、今も残っている
  • 沢の池と建物 ― 広い芝生と水面、その向こうに岡山城

茶畑、田んぼ、馬場、能舞台、池。ひとつずつ見ると、正直まったく脈絡がありません。農業と、武術と、芸能と、鑑賞が、同じ塀の中にある。歩いている最中はずっと「なんでこの組み合わせなんだろう」と思っていました。

後楽園とは、そもそもどんな場所だったのか

帰ってから調べたことを、整理しておきます。

14年かけて、藩主が「自分のために」つくった庭

後楽園は、岡山藩主・池田綱政が家臣の津田永忠に命じてつくらせた庭園です。着工が貞享4年(1687年)、一応の完成が元禄13年(1700年)。14年がかりの大工事でした。

大事なのは、これが観光地としてつくられたわけではないということです。当時の名前は「御後園(ごこうえん)」。岡山城の後ろにある園、という意味です。藩主が心と体を休め、ときに客をもてなし、家臣や領民に見せるための場所でした。

そう聞くと、あのバラバラな要素の意味が変わってきます。茶畑も田んぼも「庭の飾り」ではなく、藩の産業そのもの。馬場は武士の稽古の場。能舞台は、能を好んだ綱政が自ら舞い、人に見せた場所。つまりここは、殿様の生活と仕事と趣味が、まるごと入っている場所だったわけです。

庭というより、暮らしの全部が入った「敷地」。そう捉えると一気に腑に落ちました。

「後楽園」という名前は、明治になってから

御後園から後楽園に改称されたのは、明治4年(1871年)。一般に公開されるタイミングでの改名です。

名前の由来は「先憂後楽」。中国・北宋の范仲淹の『岳陽楼記』にある「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から来ています。人より先に心配し、人より後に楽しむ。リーダーの心得としてこれ以上ないくらい厳しい言葉で、殿様の私庭が公共の庭になる瞬間にこの名前を選んだのか、と思うとなかなか唸ります。

高低差は、次の代が足した

園の中央にある小山「唯心山(ゆいしんざん)」は、綱政の代のものではありません。子の池田継政の時代に築かれた、高さ6mほどの築山です。

これができたことで、平面的だった庭が立体になった。上に登ると、それまで横から見ていた池や芝生が一望できて、景色の意味が変わります。完成した庭に、次の代が「視点」を足したということです。つくって終わりではなく、代をまたいで更新されている。ここが個人的に一番好きなポイントでした。

焼けた庭が、絵図から戻ってきた

そしてもうひとつ。昭和20年(1945年)6月29日の岡山空襲で、後楽園は江戸時代から残っていた建物の多くを失っています。藩主の居間だった延養亭も焼失しました。

今その延養亭が建っているのは、江戸時代の絵図や記録が残っていたからです。それらをもとに復元が進められ、江戸期の景観が保たれている。大正11年に名勝、昭和27年には特別名勝に指定され、金沢の兼六園・水戸の偕楽園と並んで日本三名園と呼ばれています。

ここは、仕事柄いちばん刺さりました。建物は焼けても、記録が残っていれば戻せる。逆に言えば、記録がなければ、どれだけ立派なものでも失われたら終わりです。300年前の設計意図が図面の形で残っていたおかげで、僕は今朝それを歩けたわけです。日々、会社のファイルやドキュメントを扱う仕事をしている身としては、これ以上ない実例だと思いました。

体験すると、つながりが見えてくる

体験することでつながりが見えてくる

この学び方には、ひとつ順番があったと思っています。

もし家で「岡山後楽園とは」を先に読んでいたら、たぶん「江戸時代の大名庭園、日本三名園のひとつ」という一行で終わっていました。知識としては同じことを知るのに、何も残らなかったはずです。

実際に歩いて、「なんで庭に茶畑があるの?」という自分の疑問が先にあったから、藩主の暮らしの場だったという説明が刺さった。順番が逆だと、たぶん刺さりません。

ひとつひとつを別々に見ているうちは、ただの寄せ集めでした。それが、歩いて、目で見て、その場で聞いていくうちに「なるほど、そういうことか」とつながっていく。体験が、点を線に変えてくれる。

AIを、仕事以外の場面にもつなげていく

AIを人生のさまざまな場面につなげる

研修でAIの話をするとき、いつも最後にお伝えしていることがあります。

AIは、勉強や仕事だけのものではありません。旅行、趣味、散歩の途中でふと浮かんだ疑問。「この建物は何?」「なんでここにこれがあるの?」——その場で聞けることが、そのまま学びになります。

そして冒頭の話に戻ると、僕はAIの使い方をここ数ヶ月で切り替えました。出力を速くするための道具から、入力を増やすための道具へ。出力の速度が上がるほど、結局「何を入れたか」がそのまま差になると感じているからです。

使い方を覚えて帰るより、「自分だったら、AIをどこで使えるだろう?」を一つ見つけて帰るほうが、たぶん先に進みます。僕にとってのその一つが、朝の散歩でした。

後楽園は3月20日〜9月30日は朝7時30分から開いています。人がほとんどいない時間の芝生と水面は、それだけでも来る価値がありました。岡山に行く機会があれば、ぜひ朝に。

次は唯心山からの景色を、ちゃんと季節を変えて見に行こうと思います。

この記事を書いた人

tsubasatwi( つばさ)

国立工業高専卒業(新居浜工業高等専門学校)
「イベント×IT×営業」のカスタマーサクセスマネージャーとして活躍。セールス→構築管理運用まで全体プロジェクト管理の豊富な経験あり。

・主にITに関するイベント集客/法人営業/開発を担当
・大手通信会社を中心にエンタープライズのIT導入を担当(B2B)

DMMで日本初の NoCodeサロン を運営
「NoCodeCamp プログラミングを使わないIT開発 」
https://lounge.dmm.com/detail/2549/